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Summertime1971その2 [CEO・総務局]


Summertime1971その1をご覧頂いた皆様どうもありがとうございます。

今回も1971年夏のお話のつづきです。


Summertime2021もう一つキタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!


夏になると、幼い時のあの夏の事を思い出します。

それは50年前。1971年の夏のことです。

2度死にかけた夏。

忘れないうちに書いておきます。w

今回はその2。


宗家源吉兆庵の金魚.jpg

何か夏っぽい画像を。宗家源吉兆庵の金魚。w


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1971年の夏休み、楽しかった北海道への帰省でしたが、東京への復路は飛行機事故の影響かどうかはわかりませんが、青函連絡船と夜行特急列車で帰ってきました。連絡船はグリーン席でとっても良かったのですが、列車の方は寝台やグリーンの切符が取れなかったのか普通の指定席だったのでちょっと疲れました。
夏休みも終わりに近づいた頃、元気だった身体に変調が現れ、病院へ。大きな病院に入院することになりました。
入院日の前日の夜はなぜか家族みんな優しくわがまま放題であったような気がします。いつもテレビのチャンネル争いで喧嘩していたお姉ちゃんもこの日ばかりは私にチャンネル権を譲ってくれました。w
関東逓信病院.jpg
1974ー1978空中写真(国土地理院提供)
入院した病院は品川区の東五反田にあり山手線五反田駅から丘に向かって急坂を上っていく感じでした。連絡のマイクロバスも走っておりました。この病院は俳優の高橋英樹さんの娘でタレントの高橋真麻さんが生まれた病院でもあるようです。テレ東の「出没!アド街ック天国」で五反田が取り上げられたときに、この病院が紹介され、高橋真麻さんは五反田をホームタウンとおっしゃっておりました。
この病院は1952年開院ですが、私が入院した時の建物は1956年3月竣工のいかにも昭和の高度経済成長期を代表するような雰囲気の建物でした。当時としては相当規模の大きい病院であったと思います。大林組HP70年史に斜め上空からの画像があります。1999年7月に現在の名称となり、2000年12月に現在の地上11階・地下4階建ての建物が完成しました。2007年には雑誌記事の病院ランキングにおいて、全国総合2位で紹介されたこともあります。
病院の屋上が大好きでした。3棟の病棟の屋上がEの字に繋がっておりとっても広い屋上でした。屋上からは東京タワーが見えました。当時はこの辺に高層ビルはほとんど無かったので、丘の上にあるこの病院の屋上からはぐるーっと綺麗に東京の街を見渡すことができたように思います。日中は朝から晩まで自分の病室にいるよりも屋上にいる方が多かったかもしれません。しょっちゅう看護婦さんが私を探しに来ておりましたw。毎日朝晩の注射がいやで逃げ回っておりました。いろいろな検査に連れ歩かされ。今考えれば放射線治療もしておりました。夕方には看護婦寮へ渡り廊下を帰っていく若い看護婦さん達にちゃんと手を振ってお見送りしておりました。w
屋上のほかに毎日の楽しみといえば、朝に病棟を周ってくる牛乳屋さんのお兄ちゃんから飲み物を買うこと、売店へ行ってお菓子を買ったり、レジのところのショーケースの中に一体だけあるGIジョーの人形を見ること、若い女医さんと挟み将棋をして遊んだり、まあそのほかいろいろありましたが、やはり一番のお楽しみは家族との面会です。母は毎日通って来てくれました。小学生の姉も時々学校が終わってから一人で中央線・山手線を乗り継いで来てくれました。父もお休みの日に来てくれました。一緒にプラモデルを作ってくれました。家族が面会に来ると病院玄関近くにあったコカ・コーラ系の紙コップ式のジュースの自動販売機(50年前なのでこのタイプは珍しかった)でよくスプライトをおねだりしておりました。時々買ってくれました。シュワシュワうれしかったですw。でも家族が帰る時間になると、最初のうちは毎回、病院の玄関で見送るときに帰らないで~って泣いておりました。w
入院中よく面倒を見てくれた整形外科の患者さんで、5歳上のちょっとおませなお兄ちゃんがおりました。そのお兄ちゃんのところにはテレビがありよく遊びに行きました。一緒に尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を歌ったりw、頭にヘアリキッドなんかを付けてもらって大人の仲間入りみたいな、楽しい時間を過ごさせて頂きました。ある時、屋上で一緒に過ごしている時に、私が柵の向こうの室外機?など機械とかパイプなんかがある一段低いエリアにスリッパを片方落としてしまいました。お兄ちゃんはたぶん片足ギブスだったと思うのですが、柵を乗り越えてスリッパを拾って来てくれました。ちょっと無理した感じだったかもしれません。本当に申し訳なく何回もお礼を言いました。本当に感謝です。どうもありがとうございました。


手術日が近づいた頃、どうしても売店で売っているGIジョーが欲しくてわがままを言いまくっておりました。母はちょっと困っておりましたが、ついに根負けして買ってくれることに。当時の金額で2000円くらいだったと思うのですが、今の金額に換算するとおそらく1万円くらいでしょうか。わがままを言ってしまいなんとなく葛藤はありましたがどうしても欲しくて一人で買いに行きました。売店のお姉さんに本当にいいのって何度も念を押されたのを憶えております。重い病気でお金がたくさんかかるのではと心配してくれたのでしょう。その時のGIジョーは空軍士官候補生です。とってもうれしかったです。

手術の日、朝から泣きながら太い注射を何本も打たれました。手術室に入った時にはもう声がかすれているくらいでした。手術室にはもう一人同じ年頃の男の子もいたようです。麻酔が効いてくるころ数字を数えさせられている間に気を失ったようです。手術を終えて病室に戻り目が覚めた後、麻酔の影響か、暴れて点滴も付けていられないくらい動き回ったようです。そしていつの間にか病室のベットの上で遊んでいる状況でハッと我に返り今日は手術の日だった事を思い出します。そして記憶がだんだんつながって行くという状態でした。


後で知ったことですが、実は私の病気は当初小児がんであろうという診断だったようです。家族は医師から覚悟しておくように言われていたそうです。しかし手術の結果は幸運にもそうではなかったということでした。家族を悲しませず、今を生きることができて、本当に良かったです。手術後はなんとなく家族も病院側も私に対する扱いが変わりましたw。普通に戻ったということですね。もうわがまま放題の生活はできそうもありませんでした。退院が近づくと2人部屋から小児科の大部屋に移動しました。その部屋にはたぶん一緒に手術を受けた男の子もおりました。彼は小児がんだったそうです。

退院の日は病棟のみんな喜んでくれました。お先に退院することに申し訳なさもありましたが、もう本当にうれしかったです。病院の玄関から母と一緒にタクシーに乗ってワクワクドキドキ首都高、中央道を通って大宮前の官舎へ帰りました。気持ちの良い首都高ドライブは、壮絶で苦しかった入院生活に対するご褒美のような気がしました。どうもありがとうございます。


退院後は数か月通院しましたが、ある時外来の待合室で思いがけないことがありました。私の隣の席に若い綺麗な女の人が座ったんです。なんとそれは今も昔も大人気の映画女優さんだったんです。タモリさんが憧れたあの日本を代表する大女優さんでした。びっくりです。w


1994年10月、恵比寿ガーデンプレイスの開業時にウェスティンホテル東京に宿泊しました。
高層階の東京の南側を見渡せるお部屋で、なんと眼下の国立博物館附属自然教育園の広大な森の向こうに、思い出のあの病院が見えて、何だかとってもうれしかったです。w

KOKIA - ありがとう...



【HD】園崎詩音(雪野五月) - you / thanks(ひぐらしのなく頃に) 音質修正版



プチトマト.jpg

ウチのプチトマト。今年もいっぱい採れましたが写真を撮り忘れたので去年の画像を。w


今、皆様のおかげで生きております。

ありがとうございました。



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そら

宗家源吉兆庵の金魚素敵!コモモちゃんも一所懸命覗いてますね。夏を感じることが出来ました。
モッズパンツさまは六花亭もそうですし、素敵なお菓子を見つける天才ですね。
コモモちゃんもいつも嬉しいですね。
いつも私の話を聞いて頂くばかりで、あまりモッズパンツさまは自分のお話をなさらないので、今回はそう言った意味では嬉しかったです。
モッズパンツさまの優しさの原点でしょうか。
お姉さまも昔からお優しかったのですね。お洒落なワンピで、モッズパンツさまもとってもカコイイです。
こんなにも深く命の区切りを見るなんて。とても幼い心にしんどかったですね。
ものすごく頑張りましたね。偉いです。
人間ってほんとに不可思議な事があって、ガンが消えたりとか。オカルトっぽくてごめんなさいwきっと沢山のなにかが錯綜したんですよね。
誰かを生かしてるから、生かされてるんだと思います。
なんだかほんとに頑張ったね。って、小さなモッズパンツさまを心から褒めてあげたいです。
子供達の入院する姿はほんとに切ないです。
家族と離れるって寂しいですもんね。
とっても良い病院で診察を受けることができて良かったですね。
お父さまが相当頑張られたのでは無いでしょうか。
ウェスティンホテルから懐かしの病院が見えたのですね。なんだかやっぱり嬉しくなっちゃいますね。
プチトマトも美味しそうだし、ひぐらしは大好きなアニメだし。
ずっとタイムマシンに乗ってるような、少し甘酸っぱい気持ちになりました。
ほんとに頑張りました。偉いです。
by そら (2021-08-31 23:17) 

モッズパンツ

>>そらさん

いつもお優しいお言葉を本当にどうもありがとうございます。とーーーってもうれしいです。w
金魚羊羹入りのゼリー涼しげで良いですよね。コモモと一緒にニコニコ食べました。マスカット味が爽やかで美味しかったです。w (^ω^)b
今回はあれからちょうど50年ということで、昔の思い出話を書かせて頂きました。何だかちょっと重たい内容で辛い思いをされたかもしれません。申し訳ありません。
そらさんに褒めて頂けて、今の私も、小さな頃の私も本当にうれしくって喜んでおります。号泣ものですw。どうもありがとうございます。
病院のお医者さん、看護婦さん、仲良くしてくれた戦友?の患者さん、多くの皆様に本当にお世話になりました。そしてとっても心配して全力で見守ってくれた家族には本当に感謝しております。
ウェスティンホテルから病院が見えた時は本当にうれしかったですね。もしも病院がすぐ近くに見えたら、屋上から東京タワーを見つめているあの時の自分を探してしまったかもしれません。w
「ひぐらしのなく頃に」お好きなんですね。とっても切ない曲ですよね。私もこの曲好きで、ピアノのインストメンタル何回も繰り返し聴いてしまいます。w
そうそう今回の記事を書くにあたり、タイムマシンに乗って記憶の中の昔の自分を見に行って来たような、何かそんな感じがしますね。
そらさんにこのお話を読んで頂けて、褒めて頂けて、本当に本当にうれしいです。いつもどうもありがとうございます。 (´∀`)ノ

(^ー^)ノ
by モッズパンツ (2021-09-01 01:28) 

せつこ

こんにちは~~
大変な経験なさったなんて……親の気持ちを考えたとき、両親はどんなに切なかったことでしょう!
代わって上げたい、と思ったことと思います。
良かったね♪今があって(^-^)

by せつこ (2021-09-01 15:43) 

モッズパンツ

>>せつこさん

そうですよね。両親には本当に心配をかけたと思います。特に母はもう毎日お見舞いに来てくれましたね。家族には感謝しかありません。 (^ω^)b
この年の夏はこれまでの人生の中でも大変な時間の一つでした。今を生きることができて本当に良かったです。どうもありがとうございます。 (´∀`)ノ

(^ー^)ノ
by モッズパンツ (2021-09-01 21:14) 

お散歩爺

入院手術など辛い目に遭いましたね。
爺も1年に4回の入院手術で参りました。
お互い体調管理に気をつけて長生きしましょう。
by お散歩爺 (2021-09-06 06:30) 

モッズパンツ

>>お散歩爺さん

この一年けっこう入院されていらっしゃったのですね。大変でしたね。入院生活が長くなると普段の何気ない普通の暮らしが本当に恋しくなりますね。 (^ω^)b
お散歩爺さんもお身体に気を付けて無理せずゆっくりお過ごし下さいませ。ありがとうございます。 (´∀`)ノ

(^ー^)ノ
by モッズパンツ (2021-09-06 21:12) 

そら

GIジョーもお兄ちゃんもシュワシュワのスプライトも全部輝いてますね。
何度読んでも素敵な記事です。
なかなかまとまった時間が取れなくてご心配をおかけしました。
先日、デパ地下でお買い物出来る時間に久々に帰宅。お魚屋さんのお勧めがなんと!生ホッケ!凄い。大阪の阪神百貨店凄いw勿論購入。
生ホッケですもん。
めちゃくちゃ美味しかったです。を、お話するつもりで、あの日は寝落ちしてましたw
モッズパンツさまはお元気ですか?大丈夫?
by そら (2021-09-07 22:00) 

モッズパンツ

>>そらさん

そらさんにいっぱい褒めて頂けてうれしいです。ありがとうございます。元気です。最近は少し暑い日が減って、だんだん過ごしやすくなって来ました。散歩道には栗の実が落ち始めました。そろそろ秋が始まったのかな。 (^ω^)b
お~スゴイw。生ホッケを買うことが出来たのですね。良かったです。阪神百貨店さん優秀ですね。美味しいホッケを召し上がったそらさんは金メダルです。美味しいもの食べていっぱい元気になって下さい。ありがとうございます。 (´∀`)ノ

(^ー^)ノ
by モッズパンツ (2021-09-07 22:32) 

北海道大好き人間

凄い幼少期を過ごされたのですね。
ANAの雫石事故は、羽田⇔新千歳という世界一の幹線で発生した事故ですから、同じ路線を何度も利用している私にとっても決して他人事ではありません。
同じ様にJAL123便(御巣鷹の尾根)も、ジャンボ機故に、この路線をローテーションで飛んでいたわけですから、もしかしたらと思うところはあります。

入院生活、私も経験があります。私の場合は整形外科でしたので、他の病棟と違って深刻さはありませんでした(早い話、折れたり切れたりした箇所が繋がればいいだけのことですので)。
印象に残っているのは、誕生日に衆議院が解散されたことと、その後行われた総選挙が人生初の投票でしたが、「不在者投票」になり、看護婦長と選挙管理委員会の人が投票箱と投票用紙を持って病室を巡回していました。
この時は、利き手である右手を手術していたので、ギプスがはめられて思う様に鉛筆が握れず、まるでミミズが這った様な文字で最も書きやすい候補者名を書いたことを覚えています。
あとは、窓から中央自動車道が見え、夜になると大型トラックの屋根にあった3連の速度表示灯が高速で走り去っていくのがよく分かりました(今はそれが廃止された上に、多分、それがある旧型のトラックでも防音壁で見えないと思います)。
およそ1ヶ月の間、病棟から一歩も外へ出なかったのですが(途中の階でしたので屋上に上ることはありませんでした)、今考えたら気が狂いそうになるかも知れません。

by 北海道大好き人間 (2021-09-13 10:12) 

モッズパンツ

>>北海道大好き人間さん

北海道大好き人間さんも若い頃に入院したことがあるのですね。入院中に不在者投票したんですね。一票を大切に、管理委員会の人が投票箱と投票用紙を持ってちゃんと病室に来てくれるというのがすごいですね。ありがたいですね。w (^ω^)b
雫石事故の時の話はなかなか記事にしづらい話なので、これまで書くことを躊躇って来ましたが50年目ということで今回書かせて頂きました。
日航123便の事故も辛いですよね。確かあの時は墜落前に山梨上空も通っておりますよね。もしかしたら当日飛行中の機体を目撃していたかもしれませんね。いつまでも空の安全が守られることをお祈りします。 (´∀`)ノ

(^ー^)ノ
by モッズパンツ (2021-09-13 20:37) 

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